走って転んで立ち上がって

寂しさの紛らわし

出発三日前の夜

 

あと3日か、と長い1ヶ月の終わりに息をついた。
どうやら私には1ヶ月という準備期間は長すぎたらしい。ここ2週間ほどはただの屍と化していた。鉄は熱いうちに打て、という言葉どおり、もう少し威勢が良い時に出発するべきだった。
今は実感が湧かずに出発日までただ日にちを消化しているだけだ。
この落ち着き具合はなんだろうか?余裕か?いや何も考えていないせいか。
ベトナムでの生活のおかげが海外生活に対する不安はあまり感じない。
なんとか出来る自信が少なからずついたのだろう。ベトナム生活を終えたことによる心境の変化に気付いていなかったが、こういう所で明らかに昔の自分よりも気持ちの安定さが増した。

 

まだ、オーストラリアでの生活がよく想像出来ない。スケジュールを聞いていても情報が宙に浮いている感じがする。ある意味とても穏やかな気持ちだ。特に期待もないし、不安もない。今の生活のままでも充分なんじゃないかとも思う。しかし、結局私は出ずには居られなくなるのだ。何でそんな気持ちになるのか言語化するのが難しいが、どうしても「このままではいけない」気がするのだ。
もっと違う生き方があるんじゃないかとか何かに抑圧されているように感じるのだ。
それは私の中にチリチリと燻り、やがて燃え広がった。

 

この気持ちは世の中を渡っていくために作られた虚構の自分から開放されたいということかもしれない。
私はこれまでの人生で自分の気持ちを素直に表現することをしてこなかった。覆い隠して我慢してを繰り返し、何にも感じないふりをするようになった。その癖が積み重なって今は物事に対して感度が鈍くなってしまった。
この感度を高めていくということは諸刃の剣で、自らにダメージを食らう可能性も高い。
それでも私を覆いつくしていた壁が壊れようとしているのか、本能的に虚構の自分で生きることの限界が来ていることを悟った。

 

これからの生活は自分の壁をとっぱらって丸腰で物事に立ち向かっていきたい。
傷ついて嫌で泣いて喚いて落ち込んでどうにもならない事態になる予想はついているが、それでもしなければ長年の癖は抜けないと思う。
とにかく自分に嘘をつかないこと、喜怒哀楽を表現していくことを目標にしていきたい。